松原忠之
「美ぎ宮古ぬあやぐ〜青い海ぬ如ん、太陽ぬ如ん〜」
“青い海ぬ如ん澄み渡る唄に 太陽ぬ如ん声乗しば見事だら 我が先生よ”(「我が先生」より)
2021年6月リリースのファーストアルバムに続く、セカンドアルバムです。
宮古民謡界の至宝、国吉源次から教えを受けた松原忠之。
「歳を重ねるごとに、源次先生から教わった事や、源次先生が宮古民謡に賭けた思いを理解するようになりました」(松原忠之)
一時は、宮古民謡を離れて、ヒップホップに傾倒していた時期もありましたが、「宮古民謡の歌詞や背景を学んでいくうち、民謡ってまさにソウル・ミュージックだ! と思いました。民謡は昔の人が生活の中から滲み出た言葉や思いを表現したもので、それは自分がヒップホップで『カッコいい』と思ってやって来たことと同じでした。27歳の時に、宮古民謡の素晴らしさを改めて認識し、その素晴らしさをもっと多くの人に知って欲しいと思いました」
また、「宮古民謡がまだ一般的には認知されていなかった時代に、沖縄本島で宮古民謡を広めた源次先生。宮古民謡に対して、圧倒的な自信と誇りを持っていたからこそ、出来た事だと思います」
国吉源次氏逝去から3年(2021年5月没)。 宮古民謡に託した師匠の思いを、松原忠之がさらに熱く伝えるべく制作されたのが、本セカンドアルバムです。
初のオリジナル曲「我が先生」を始め、宮古島出身のシンガー・ソングライター下地イサムとの共演作も聴きどころです。 また、囃子には、村吉茜と上地愛美の特別ユニット「あかまーみ」が、島太鼓には、ひがけい子が参加しています。
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宮古の海のように澄み切った歌声、また太平山と呼ばれる島の地形の隅々まで響かせる力強い喉、若き宮古民謡の後継者。
1992年沖縄県浦添市に生まれる。父は宮古生まれではないが、祖父祖母が宮古出身で、母も中学卒業までは宮古島で育った宮古一家。幼い頃、従姉の弾く三線姿に憧れて三線と戯れる。小学3年生の時、伯父(母の兄)に手を引かれて、連れて行かれたところが、宮古民謡界の巨匠、国吉源次による、宮古民謡研究所であった。
国吉源次(1930年生まれ)師といえば、1960年代、当時ほとんど知られていなかった宮古民謡の存在を、沖縄全島へ知らしめた歌手といえる。歌手になるために宮古島から出てきて、様々な職業に従事する傍ら、宮古民謡の普及発展に大いに貢献した、名実共に宮古島を代表する歌い手である。
松原忠之は民謡研究所に通うのが楽しく、学校の宿題はしなくても、三線の稽古は日々欠かさなかった。母はそんな息子を応援しようと、励ましながら送り迎えた。通い始めて1年経った頃には、研究所の大人クラスにも顔を出し、毎日毎日、雨の日も嵐の日も、研究所へ通った。そして集団巻踊「クイチャー」が弾けた小学5年の頃には、国吉源次師の傍らには、いつも松原忠之の姿があった。源次師は何かイベントがあれば忠之を舞台に上げて伴奏させ、伴唱させた。忠之が15歳の時、父の仕事(鳶職)が独立した関係で、父の仕事を手伝うためにその頃から現場に出る。学校と仕事と三線を両立させるのに必死の10代後半を過ごす。
その後、ヒップホップ、ラップに興味も持ち、一時、宮古民謡から離れる。
そんな中で、日々の生活から生まれたヒップホップ、ラップの歌詞と、宮古民謡との同一性(日々の生活から生まれて来たという)を感じ、改めて宮古民謡を見つめ直す。
「ヒップホップ、ラップと宮古民謡の立ち位置は同じだ」と感じ入り、27歳になった頃から、国吉源次師に対する思いを胸に、宮古民謡を伝えるべく、ライブ活動を精力的に展開するようになる。
2021年6月、ファーストアルバムをリリースし、以後も歌える場所があれば積極的に宮古民謡を歌い続けている。
録音:Studio G(沖縄・宜野湾):三住和彦:2024年1月
ミックスダウン:Studio Ton Meister : 三住和彦
マスタリング:Studio Chatri : 田中三一