金城恵子、長嶺ルーシーなど数多くの弟子を育成してきた三線の伝道師、大城志津子。
待望の新作がついにリリース!
- 2013年7月沖縄市にて録音
- アルバム・曲解説、歌詞・対訳付き
■本作について
「大城志津子の完璧な三弦! 円熟の歌声!」
──普久原恒勇氏からのコメント
1965年に民謡研究所を設立して以来、多くの弟子を育成し、また自身も沖縄民謡史に残る名曲(本作収録の「御年日ぬ唄」など)を80曲以上手がけ、1975年にオープンした民謡クラブ「ハンタ原」では毎夜素晴らしいライブを展開して来た、まさに沖縄民謡の立役者である大城志津子。
体調の事もあり、長くレコーディングからは離れていましたが、今回待望の新作が完成しました。
ビセカツ氏と普久原恒勇氏による今作の為の書き下ろしアルバム表題曲を始め、大城志津子と上原直彦氏による新曲。さらにオリジナル曲も5曲収録しました。
レコーディングは大城志津子のトレードマークである六線を使用し、一発録りで行われました。ゲストには弟子である長嶺ルーシーが参加し、「新ディグぬ花」を始め、素晴らしい歌と三線を聞かせてくれます。
長きに渡り新作のリリースが望まれていた大城志津子。本作は今後さらに沖縄民謡を歌い継いで行こうとする大城志津子にとって、新たなる出発点となるアルバムです。
■収録曲
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- 1. 我した島唄
- (作詞:ビセカツ 作曲:普久原恒勇)
今回のCDの為に書き下ろされた新曲です。“歌いましょう 我らの島の歌 歌いましょう”と歌い込まれています。なお、普久原恒勇氏は万感の思いを込めてこの曲を作曲し、大城志津子に捧げました。
- 2. 運ちゃん暮し
- (作詞:大城志津子 共作:金城利正 作曲:沖縄民謡)
人情味溢れる沖縄のタクシー模様を歌い込んでいます。“お客さんとの話しに夢中で メーター倒すのも忘れて あーあ また欠損”と歌い込まれています。
- 3. 寄らてぃ島うた
- (作詞:上原直彦 作曲:大城志津子)
この曲も書き下ろしの新曲です。“歌は宝物 大事にしなくてはならぬ 島人と共に誇り歌う”と歌い込まれています。
- 4. 新ディグぬ花
- (作詞・作曲:川田松夫)
ペルーに生まれ育った、沖縄三世の長嶺ルーシーとのデュエット曲です。沖縄の県花である、ディグ(デイゴ)の花をモチーフにした歌詞です。
- 5. 朝花
- (沖縄民謡)
奄美民謡の代表曲「朝花」。ここでは沖縄本島を通り越して、八重山へと伝えられた「朝花」を歌っています。この曲こそ大城志津子のデビュー曲であり、彼女の歌の原点とも言える曲です。
- 6. 里が真心
- (作詞・作曲:大城志津子)
「里」とは女性から愛しい男性へ呼びかける時に使います。切々と女性の心情を愛しい男性に訴え掛ける曲です。
- 7. かねる病気やくんぴらかち
- (作詞・作曲:大城志津子)
“こんな病気は踏みつぶして 笑って見せようカマドゥさん”と歌い込まれています。人生に対するささやかな応援歌です。
- 8. 命ぬ洗濯
- (作詞:不詳 曲:沖縄民謡)
遊郭通いで財産を食いつぶした男と、遊女のたわいない会話を、優しさたっぷりの歌詞に乗せて歌い上げています。
- 9. 恋忍心
- (作詞:上江洲ひろこ 補作:大城志津子 作曲:大城志津子)
女心をしっとりと歌い上げた情歌です。大城志津子22歳の時に作ったオリジナル曲です。
- 10. 恋し沖縄
- (作詞:大城志津子 共作:藤田さえ子 作曲:大城志津子)
住み慣れた沖縄 訳あって私は 心で泣いて 島を出る心苦しさ”と歌い込まれています。
- 11. 新シミルスルヌガ
- (作詞・作曲:川田松夫)
沖縄を代表する作曲家の一人、川田松夫氏の作品です。“女を見ればすぐに惚れ込み 意気地が肝心と しむけてみたら 女房持ちだと承知するまい 無鉄砲だよ まあいいか!”と歌い込まれています。
- 12. 除夜の鐘
- (作詞・作曲:前川朝昭)
“過ぎゆく年は 振り返らずに 迎え来る年に良い事のみを願う”と歌い込まれています。
- 13. 御年日ぬ唄
- (作詞:儀保盛幸 作曲:大城志津子)
大城志津子の代表的ヒット曲です。“百二十歳まで長生きを願う”と歌い込まれています。
■大城志津子 プロフィール
1947年八重山は石垣市の生まれ。3、4歳の頃から父親の弾く三線を意識していたという。なお、彼女の伯母(父の姉)はマルフクレコードを設立した普久原朝喜の最初の妻、鉄子である。5歳の時に太鼓、6歳で踊りに三線を習い、「浜千鳥節」を弾く。中学校を終えると、民謡歌手を目指して1人で那覇に出る。
その後はひたすら歌と三線を練習する日々を送る。16歳で初のレコーディング。「朝花」が大ヒットする。以降レコーディングの機会が増え、テレビやラジオにも出演するようになる。
1965年には民謡研究所を設立し、本格的に弟子の育成をする。1975年には伝説となった民謡クラブ「ハンタ原」をオープン。2005年まで続ける。
以降今日に至るまで80曲以上のオリジナルを手掛け、多くの弟子を育成する。尚、三線は、六弦のもの(六線)を弾いている。