レネ・パウロ
「ワイキキ~ビューティフル・ハワイアン・メロディー~」
Rene Paulo "Waikiki ~Beautiful Hawaiian Melody~"
※本CDは2002年にリリースされました「ワイキキ」(RES-62)と同じ音源を使用しています。
全てのピアノ音楽ファンに聴いてほしい、珠玉のアルバム!
今年82歳になるハワイを代表するラウンジ・ピアニストの代表作である本作について、あのジョージ・ウィンストンから“This is a great album of Rene Paulo's beautiful solo piano playing and arrangements.”と絶賛のコメントが寄せられています。
1960年代、“夢の楽園”と言われたハワイ。当時のワイキキは“ラウンジ・ミュージックの楽園”と呼ばれる程、クラブやバー、キャバレー(総称してラウンジ)が多数あり、多くのミュージシャンが活躍しました。ロマンチックで美しいメロディーを奏でるレネ・パウロはその中でも一番の人気であり、60年~70年までに19枚のアルバムをリリースする程でした。本作はその当時の演奏を今に伝える、大変ロマンティックで美しいハワイアン・ミュージックであり、また数少ないピアノ・ソロによるハワイアン・アルバムです。
今回の収録曲の曲順は1つのストーリーとなっております。1曲目の「アクロス・ザ・シー(7つの海を渡って)」、2曲目でワイキキに着き、4曲目「ラブリー・フラ・ハンズ」でフラを楽しみ、6曲目「アカカ・フォールズ(アカカの滝)」に行き、13曲目「ホノルル・シティ・ライツ」でホノルルの夜景を楽しみ、14曲目「マイ・ハワイアン・スーベニール(私のハワイの想い出の品)」でハワイのお土産を求め、15曲目でお別れの歌が流れ、16曲目「プゥプゥ・ヒヌヒヌ」でゆっくりお休みとアルバムの幕が閉じます。
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唯一のハワイアン・ラウンジ・ピアニスト。82歳になるレネ・パウロが2002年8月にリリースした、32年振りのオリジナル・アルバムです。
1929年ハワイ、オアフ島ワヒアワ(ホノルルからフリーウェイで約1時間弱)生れのレネは、フィリピン人の血をルーツに持ちます。
母親が弾くピアノに興味を持ち、その後個人教授からピアノを習い始め、18歳になると、ニューヨークのジュリアード音楽院へ進学しました。「クラシックやジャズを本格的に学びたかったんだ。」と述べています。
1950年代は、アメリカ軍属のピアニストとして様々な所に行きましたが、その内の1年半程を日本で過しました。
「夜の六本木や赤坂、銀座のジャズ・ピアニストの帝王」として日本の社交界のトップクラスの人々の前で演奏しました。
また、日本では奥さんであり、歌手の“アケミさん”(日系の女性)と一緒にステージに立つ事もしばしばありました。
その後ハワイに戻り、1960年代いよいよワイキキにて本格的な演奏活動をスタートします。
当時のワイキキは、“ラウンジ・ミュージックの楽園”と呼ばれる程、クラブやバー、キャバレー(総称してラウンジ)が多数あり、あらゆる場所でピアニストが求められました。
船や、パン・アメリカン等の航空機でアメリカから“夢の楽園”ハワイに大挙押し寄せる観光客の前で、ロマンチックなハワイアンのナンバーを奏でるレネは引っ張りだこでした。
1961年、アメリカ本土のリバティレコードから、ファースト・アルバムをリリースし、その後1970年までに19枚のアルバムをリリースしました。
1970年代以降、人々の音楽的興味の変化や、レネ自身もワイキキでキャバレーを経営し始めた事も手伝って、徐々に演奏活動は減っていきました。
1998年、サンディがレネをゲストに迎えたアルバムをリリースする迄は、レネの新しい録音を耳にする事もなく、またCDショップでもごく稀に、ベスト・アルバムを1枚見かけるのみという、淋しい状態でした。
そして2002年に本作がリリースとなり、同時に「浜辺の歌」「われは海の子」「見上げてごらん夜の星を」など、ハワイの日系の人々が愛した曲ばかりを収録したアルバム「SURFTIDES~浜辺の歌」をリリース。さらに2003年にはハパ、イズラエルのヒット曲をカバーしたアルバム「ワイマナロ・ムーン」をリリースしました。
現在もリクエストに答えてオアフ島のホテルで演奏を続けています。