沖縄JAZZ協会
「ウチナーJAZZ!」
第二次世界大戦後、沖縄を統治下に収めたアメリカは、基地内外でさまざまな娯楽行事を実施しました。その一つがジャズコンサートであり、カウント・ベーシー、ルイ・アームストロング、ライオネル・ハンプトンなど大物ミュージシャンが沖縄に来ました。また、フィリピンからも多数のジャズ・ミュージシャンを呼び、コンサートを行いました。本作のレコーディングでテナー・サックスを担当しているアラン・カヒーぺはフィリピン出身であり、沖縄を訪れて以来帰国することなく、現在に至ります。
1950年代、ジャズは隆盛を極め、ジャズクラブ(当時はキャバレーと呼ばれていました)は増え続け、さらに多くのジャズミュージシャンが必要とされました。そこで在沖縄米軍と時の政府は、地元でのジャズミュージシャンの育成に乗り出しました。中学、高校で吹奏楽部に所属していた者たちがその要望に応えました。最初はジャズ独特のグルーブやノリが解らなかった為、カカシ(楽器を演奏している振りをして立っているだけ)としてステージに立ちました。そんなジャズビギナーも、基地で手に入れたレコードや、アメリカ、フィリピン、そして東京から来る一流ミュージシャンの演奏に接するにつれて徐々に実力を付けて行きました。
その当時、ジャズミュージシャンは花形でした。給料が公務員の2~3倍あったからです。1950年代から60年代は沖縄中でジャズが聞かれ、ミュージシャンは夜10時に基地内での演奏が終わると、今度は基地の外のキャバレーで演奏を続けました。まさに沖縄ジャズの黄金時代であり、アメリカ人のみならず沖縄の人々にとっても、ジャズは特別な音楽ではなく、大変身近なものとして広く愛されていました。(沖縄民謡が盛んになるのはその後1960年代です。)
1957年ミュージシャンの地位向上を目的に沖縄県音楽家協会(OMA、初代会長:上原信平)発足。琉米親善センターや国映館などで盛んにコンサートを行ないました。1972年本土復帰を境に職を失い、転職を余儀なくされたミュージシャンたち。次第にビッグバンドが少なくなる一方で、ジャズ喫茶やライブハウスが増え、ミュージシャン達はジャムセッション等で腕を磨いていました。
1985年2代目会長我那覇文正氏就任。復帰後の低迷した沖縄ジャズ界を孤軍奮闘して牽引しました。1997年9月更なる発展を目指し名称をOMAからOJA(沖縄JAZZ協会)に改称し現在に至ります。(初代会長:石嶺弘實、2001年より屋良文雄会長)、現在はジャズ愛好家(賛助会員)を含め350名を越す会員数を誇ります。
近年の活躍としては、那覇市主催の「ふれあいジャズフェスティバル」を開催、浦添市では浦添市文化振興事業実行委員会主催のジャズイン浦添を「ボーカルシリーズ」、「スクリーンの世界」、「ジャズと琉舞と古典音楽とのコラボ」、「クラシック音楽とのコラボ」等、ミュージカル「島にジャズがやって来た」等に出演するほか、台湾での交流演奏会や県内各地の小・中・高校で学校公演を開催するなど、ジャズ音楽を通じて地域文化振興・人材育成・情報教育等に尽力しています。
ビックバンドの迫力あるサウンドから心に沁みるコンボまで、沖縄を代表するジャズミュージシャンの協会です。
沖縄のジャズはビッグバンドが中心でしたが、実は今作の様なレコーディングを過去に行った事は一度もありません。それは1950年代から60年代に掛けてはレコードをわざわざ制作しなくても、手軽に生の演奏が聞けた為です。しかし、そろそろ80歳が見えてきたメンバーもおり、また“沖縄のジャズはビッグバンドにあり”と言うことを形にすべきだとの声も起こり、今回のレコーディング構想へと繋がりました。
今回のレコーディングに参加したメンバーは全て地元で現役として活躍しているジャズミュージシャンばかりです。前述したフィリピン出身のメンバーから、アメリカ人、ウチナンチュー(沖縄の人)、年齢も77歳から20代半ばまでと多彩なメンバーが集まりました。レコーディングは2008年7/31、8/1、2の3日間に渡り、コザ(沖縄市)のホール「あしびなー」にて一発録音にて行いました。レコーディングエンジニアはベテランの伊豫部富治です。収録曲は全て沖縄をモチーフにした曲ばかりです。
今作は沖縄ジャズ史上歴史的録音であり、“沖縄のジャズ・スピリットここにあり!”との熱き思いを伝えるアルバムです。
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※M6は屋良文雄トリオ、M11は香村英史クインテットによる演奏。他は全てビッグバンドによる演奏。
※M3、4、5、8、の編曲は真島俊夫(M3は作・編曲)
※M1、7、10の作・編曲は長山善洋
※M2、9の編曲は真栄里英樹
※なんくるないさ=なんとかなるさ、ウーマクー=やんちゃの意