松原忠之
「清ら海、美ら島~あやぐ、宮古のうた~」
宮古民謡界の至宝、国吉源次氏から次代の宮古民謡を託された、期待の新人のデビュー作!
沖縄本島の民謡とは違う、宮古島で生まれたオリジナル民謡より、代表曲を収録しました。
歌うは、8歳から20歳まで、宮古民謡を代表する歌者、国吉源次氏から教えを受けた、松原忠之。
国吉氏から、次代の宮古民謡を託された、期待の新人です。
素朴で力強い歌声で歌われる「なりやまあやぐ」「伊良部トーガニー」から、円陣を組んで歌い踊る宮古特有の伝統舞踊、クイチャーにて歌われる「漲水ぬクイチャー」まで、まさに、これぞ宮古民謡と言える曲ばかりです。
宮古民謡の素晴らしさを体感出来る1枚! まさに決定盤と言えます。
宮古の歌は、神歌、古謡、民謡に大別されます。その中で民謡は、名も無き一般の民が作った歌が多く、作者不詳のものが多くを占めます。それらの歌からは、干ばつなどの厳しい自然環境や、過酷な人頭税を跳ね除けるための、逞しさや明るさが感じられます。
歌詞は、沖縄本島の民謡に見られる8、8、8、6の琉歌のような定形ではなく、比較的自由な形式で作られています。曲調は、2拍子で叙情的なものが見受けられます。
歌は、元々アカペラで歌われていましたが、20世紀に入ってピアノ、オルガンよる伴奏が付けられ、さらに20世紀中頃には、三線による伴奏が付けられました。
三線による伴奏は、1950年代から60年代にかけて考案され、特に、琉球古典音楽の要素を取り入れた古堅宗雄氏による伴奏形式は、宮古民謡に於ける三線伴奏の大切な基盤となりました。
なお、宮古では歌を「あやぐ」と呼び、漢字では「綾語」と記載します。
宮古民謡は、宮古語で歌われ、沖縄本島や、沖縄の他の島で話されている言語とは異なります。宮古語は、2009年2月、ユネスコによる消滅危機言語の内、「危険」のランクに分類されています。また文化庁の消滅の危機にある言葉、方言でも、「危険」のランクに分類されています。
私は8歳から20歳頃まで国吉源次先生の元に通い、宮古民謡を学びました。
その期間、数々のステージへ源次先生の後ろをついてまわり、クイチャーになれば伴奏をしました。時には孫と間違われる事もありましたが、源次先生は笑顔で『僕の孫です』と言ってくれました。そしてそう言ってくれる事が、小学生ながらとても嬉しかった事を覚えています。
源次先生の元に通い始めたばかりの頃は、私が余りにも唄が下手くそという事で、私が稽古から帰った後、奥様の義子先生と悩んだ事もあったと、後々になって聞かされた事もありました。
それでも源次先生は本当に手取り足取り、細かい部分まで沢山の技や節回し、そして唄の心を教えてくれました。
私は小学生の頃から、源次先生の弟子でありファンでしたから、友達が流行りの歌を聴いたり歌ったりする中、私はいつも源次先生のCDを聴き、とにかく源次先生大好き少年でした。
源次先生の指導のお陰で、入門から1年で新人賞、2年目で優秀賞、3年で最高賞までとらせていただき、その5年後、中学3年の頃には教師免許までいただきました。
中学卒業後15歳から、実家の家業である鳶職を手伝いながら稽古に通いました。
20歳になる頃には仕事も忙しくなり、あまり源次先生の元に通う事は出来なくなり、ステージへ一緒について行く事も出来なくなってしまいましたが、源次先生は落ち着いて民謡の事も出来るようになったら必ずやりなさいと言って、いつも激励してくれました。
そして27歳になった頃に、これからは民謡もしっかりやっていくと決めて、無償でライブ活動を始め、歌える場所があればどこでも歌いました。源次先生から習って来た宮古民謡を1人でも多くの人に聞いてもらいたかったし、源次先生が唄って来た宮古の唄を、私よりも下の世代にも残して行きたい、と思うようになったからです。
源次先生の元に通った12年間は私の財産です。唄三線、心、愛情、沢山の事を教えてくれた源次先生や、奥様の義子先生への感謝はこの文章の中に収める事は出来ませんが、これから先、源次先生から習って来た宮古民謡を歌い続けて、少しでも恩返しをしていきたいと強く思っています。
今回、このCDを聞いて下さる方々が宮古民謡の素晴らしさを改めて感じたり、知って頂ける事があればとても嬉しく思います。
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選曲は、アルバムプロデューサーの小浜司と、松原忠之の合議の元に決められました。
5曲目 作詞:国吉源次、15曲目 作詞・作曲:棚原玄正、あとはすべて宮古民謡
宮古の海のように澄み切った歌声、また太平山と呼ばれる島の地形の隅々まで響かせる力強い喉、若き宮古民謡の後継者。
1992年沖縄県浦添市に生まれる。父は宮古生まれではないが、祖父祖母が宮古出身で、母も中学卒業までは宮古島で育った宮古一家。幼い頃、従姉の弾く三線姿に憧れて三線と戯れる。小学3年生の時、伯父(母の兄)に手を引かれて、連れて行かれたところが、宮古民謡界の巨匠、国吉源次による、宮古民謡研究所であった。国吉源次(1930年生まれ)師といえば、1960年代、当時ほとんど知られていなかった宮古民謡の存在を、沖縄全島へ知らしめた歌手といえる。歌手になるために宮古島から出てきて、様々な職業に従事する傍ら、宮古民謡の普及発展に大いに貢献した、名実共に宮古島を代表する歌い手である。
松原忠之は民謡研究所に通うのが楽しく、学校の宿題はしなくても、三線の稽古は日々欠かさなかった。母はそんな息子を応援しようと、励ましながら送り迎えた。通い始めて1年経った頃には、研究所の大人クラスにも顔を出し、毎日毎日、雨の日も嵐の日も、研究所へ通った。そして集団巻踊「クイチャー」が弾けた小学5年の頃には、国吉源次師の傍らには、いつも松原忠之の姿があった。源次師は何かイベントがあれば忠之を舞台に上げて伴奏させ、伴唱させた。忠之が15歳の時、父の仕事(鳶職)が独立した関係で、父の仕事を手伝うためにその頃から現場に出る。学校と仕事と三線を両立させるのに必死の10代後半を過ごす。
27歳になった頃から、国吉源次師に対する思いを胸に、宮古民謡を伝えるべく、ライブ活動を精力的に展開するようになる。
2021年2月、初レコーディング。
歌・三線:松原忠之
三線伴奏・歌:仲本陽兵
金城裕幸:笛
ひがけい子:島太鼓
国吉義子:歌(5曲目)・囃子
菊池香里:囃子
岡崎里栄:囃子
2021年2月25日~27日:沖縄市のサード・ガレージ・スタジオにて録音