トリオ・エスペランサ

「ビューティフル・ハーモニー〜ときめきのシャンソン名曲集〜」

TRIO ESPERANÇA "Doce França"

「ビューティフル・ハーモニー〜ときめきのシャンソン名曲集〜」
ときめきのボーカル・ハーモニー! 心踊る、シャンソン・カヴァー・アルバム。

■本作について

1961年、ブラジルで結成された伝説のグループ、トリオ・エスペランサ。
あのポール・モーリアが絶賛した素晴らしき歌声!

レジーナ、エヴァ、マリーザの3姉妹によるグループ、トリオ・エスペランサ。エスペランサとは“希望に満ちていること”の意味です。トリオの活動の拠点を、ブラジルからフランスに移して20年の節目を祝い、また併せてシャンソンの伝統に敬意を表する目的で制作されたのが本アルバムです。ポール・モーリアの右腕として活躍し、現在はニュー・ポール・モーリア・グランド・オーケストラの指揮者を務めるジェラール・ガンビュスによる、姉妹のボーカル・ハーモニーを最大限に生かしたアレンジが、シャンソンのスタンダード曲に新たなる生命を与えています。そして、それは今までに聴いたことのないような、大変フレッシュなシャンソンのアルバムに仕上がりました。

また、ブラジル人の三姉妹だからこそ表現し得る、ブラジル独自の感覚“サウダージ”に由来するフィーリングが、それぞれの曲に深い味わいを与えています。さらに曲によってフランス語とポルトガル語で歌い分けており、「バラ色の人生」はフランス語とポルトガル語を織り交ぜています。また5、6曲目で聴かれるブラジリアン・タッチのパーカッションや、10曲目のボサノヴァ・タッチのギターなど、サウンド面でもブラジルのテイストとフレンチのテイストが程よくブレンドされています。

本作はブラジル出身のトリオ・エスペランサと、フランス人プロデューサーのジェラール・ガンビュスが作り上げた、非常にオリジナリティ豊かなシャンソン・アルバムです。


■収録曲

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全曲編曲:ジェラール・ガンビュス
【カッコ内はオリジナル・アーティストになります】
歌詞表記:(p)ポルトガル語 (f)フランス語

1. 仲間を先に(パリジャン気質)【ジョルジュ・ブラッサンス】(p)
LES COPAINS D'ABORD (Nos somos les Copains d'abord)
ジョルジュ・ブラッサンスの1964年発表の作品。ブラッサンスの友人だった映画監督イヴ・ロベールの作品「仲間を先に」のために作られたシャンソンです。
2. いくつかの愛の言葉【ミッシェル・ベルジェ】(f)
QUELQUES MOTS D'AMOUR
フランソワーズ・アルディやヴェロニク・サンソンを始め、多くの歌い手たちに曲を提供しているミシェル・ベルジェ1980年の作品です。
3. 時は過ぎ行く【ジュリアン・クレール】(f)
CE N'EST RIEN
この作品は1971年にジュリアン・クレールが歌い、爆発的にヒットしました。
4. 懐かしき恋人たちの歌【ジャック・ブレル】(p)
LA CHANSON DES VIEUX AMANTS (A cançao dos velhos amantes)
ジュリエット・グレコが最新作で取り上げたシャンソン。ジャック・ブレル作詞、ピアニストのジェラール・ジュアネストが作曲。ブレルの代表曲の1曲です。
5. リリー【ピエール・ペレ】(p)
LILY (Lily a Somali)
1977年にピエール・ペレが作詩・作曲して歌った名曲です。
6. そして今は【ジルベール・ベコー】(f)
ET MAINTENANT
ジルベール・ベコーが1962年に放った大ヒット曲。アメリカでは「ホワッツ・ナウ・マイ・ラヴ」と言うタイトルでフランク・シナトラ、エルヴィス・プレスリーなどがカヴァーしています。
7. 恋は片道切符【ミッシェル・フュガン】(f)
CHAQUE JOUR DE PLUS
1989年にミッシェル・フュガンが発売したアルバムの収録曲。歌詞はブリス・オムス、曲はフュガンです。
8. ラ・ボエーム【シャルル・アズナヴール】(f)(p)
LA BOHÊME (Uma bela historia)
シャルル・アズナヴール作曲、ジャック・ブラント作詞の1965年発表の作品。アズナヴールの代表曲の1曲です。
9. パリの空の下【ジャン・ブルトニール他、エディット・ピアフ、ジュリエット・グレコなど】(p)
SOUS LE CIEL DE PARIS (Sob o ceu de Paris)
1951年に制作された映画「巴里の空の下セーヌは流れる」の挿入歌。エディット・ピアフ、イブ・モンタン、ジュリエット・グレコなど多くの歌手がレパートリーにしています。
10. 残されし恋には【シャルル・トレネ】(p)
QUE RESTE-T-IL DE NOS AMOURS (Bem mais que tudo)
シャルル・トレネが作詩し、自身のレパートリーとして歌って来ました。
11. ベンチの恋人たち【ジョルジュ・ブラッサンス】(p)
LES AMOUREUX DE BANCS PUBLICS (Os amantes dos bancos publicos)
ジョルジュ・ブラッサンスが1952年に作詩・作曲して歌った曲です。
12. バラ色の人生【エディット・ピアフ】語りの部分(p) テーマとメロディ(f)
LA VIE EN ROSE
エディット・ピアフの代表曲の1曲です。1946年10月にレコーディングされました。
13. 告白【フランソワーズ・アルディ】(f)
MESSAGE PERSONNEL
1973年にフランソワーズ・アルディがミッシェル・ベルジェに曲を依頼し、アルディが歌詞を書いて歌いました。
14. 優しい気持ち【ブールヴィル】(f)
TENDRESSE
男優のブールヴィルが1963年に歌ったシャンソンです。ノエル・ルーが作詞し、ユベール・ジローが作曲しました。

日本盤のみのボーナス・トラック

15. オー、シャンゼリゼ (f)
AUX CHAMPS-ELYSÉES
1969年にフランス人シンガーのジョー・ダッサンが歌い、大ヒットした曲です。原曲はイギリスの「ザ・ウォータールー・ロード」です。


トリオ・エスペランサ・プロフィール

物語は若き日のコレア姉妹がリオのガヴェア地区にある家の裏庭で、木箱で作ったステージと箒の柄のマイクを使って年長の兄弟たちのグループ“オズ・ゴールデン・ボーイズ”の真似をしていた頃に遡る。“オズ・ゴールデン・ボーイズ”は当時ブラジルのポップ・ミュージックの人気番組“Jovem Guarda”ですべての記録を塗り替えていた。エヴァとレジーナは長男のロベルトに、自分達もグループを作りたいというアイデアを持ち出した。一家にはまだ末の弟のマリオもいた。こうしてトリオ・エスペランサは1960年代に誕生した。そして木箱のステージと箒の柄のマイクは末娘のマリーザが受け継ぐことになった。マリーザはまだ言葉も喋れない頃から小鳥のように上手に歌うことが出来た。

トリオ・エスペランサのファースト・アルバム“O menino do Amendoim”は世間に知られることがなかったが、当時の世界的なヒット曲を集めた2枚目のアルバム“Film triste”はヒットし、トリオ・エスペランサもゴールデン・ボーイズの足跡を踏襲することになった。

コンサート、フェスティバル、TV番組、レコーディング・スタジオ、学校と3人の子供たちは忙しく働き、ヒットと成功を重ねて行った。トリオの中でソロを担当していたエヴァは特に注目を浴び、やがてソロ歌手としての華々しいキャリアをスタートした。また髪にリボンを付け、白いソックスに黒のエナメル・シューズといういでたちのマリーザは少女時代にすでに2枚の45回転シングルを出し、トリオ・エスペランサの中でも2番人気を占めていた。

ブラジル人が親しみを込めてエヴィーニャと呼ぶエヴァのファースト・アルバム“Casaco Marrom”は地元のポップ・チャートで1位になり、それがきっかけで彼女はリオのマラカナジーニョで開かれたインターナショナル・ポップ・ソング・フェスティヴァルのステージに上った。そしてシンガー、ジュリー・ロンドンの目の前で「ベスト・インタープリター賞」を受賞し、ロンドンの有名なヒット曲「クライ・ミー・ア・リヴァー」をレコーディングしてヒットさせた。

こうして三姉妹はジルベルト・ジル、ミルトン・ナシメント、マリア・ベターニア、カエターノ・ヴェローゾ、ガル・コスタ、イヴァン・リンス、ロベルト・カルロス、その他の有名なシンガーたちと共演するようになった。70年代最後の大きな仕事はポール・モーリアとの共演だった。モーリアは“A Grande Orquestra de Paul Mauriat”のレコーディングのためにブラジルに滞在していて、最高のヴォーカリストを探していた。そしてトリオ・エスペランサに声が掛かったのだった。のちにバンド・リーダーのジェラール・ガンビュスがエヴィーニャと結婚し、フランスに住まいを移してから物語は違う展開をすることになる。80年代に入るとマリーザもフランス人の男性と結婚し、パリに住むようになった。

以降毎年3ヶ月の間、三姉妹はポール・モーリアのツアーに参加したが、共に歌うことを愛する3人は、それでは飽き足りなかった。1988年、エヴァはマリーザとレジーナに声を掛けて第三期のトリオ・エスペランサを結成した。ディレクションはジェラール・ガンビュスが担当した。そして1989年、トリオ・エスペランサは有名なフランス人シンガー、ベルナール・ラヴィリエに発掘された。

彼女らは一年間ラヴィリエのツアーに参加した。そしてその間にもう一人のフランスのスター、パトリック・ブリュエルにスカウトされた。ブリュエルとは2年間ツアーをし、次にブリュエルのプロデューサーでユニヴァーサルのディレクターでもあったミック・ラナロの注目を浴びた。その結果として“A capella do Brasil”、“Segundo”、“Nosso Mundo”、“Preferidas”、“ de Bach à Jobim”そして2014 には“Doce França”という一連のヒットアルバムが生まれ、全体で50万枚の売り上げを上げ、数多くのコンサートを世界中で行う結果となった。